「良かれと思ってアドバイスしたら、相手を怒らせてしまった」
なんて経験はありませんか?
決してあなたに悪意があったわけではありませんよね?
でも相手には伝わらない。そういった気持ちのすれ違いというのは、どうしても起こってしまいます。皆さんも経験していると思います。
それは、
①相手のの価値観や置かれている状況
②一時的な気がかりだったり
③次の予定
④昨日の失敗
などなど。また、
⑤あなたとの関係性
その人の、まあ、
⑥器の大きさ
というのも影響して、常に変化してしまうものなんです。
あなたとしての「思いやり」が
相手にすれば「押しつけだ」と
なってしまいます。
もくじ
- もくじ
- 他にも例がたくさん(ここは飛ばしてもOK)
- ① 体調を気遣って「これ食べなよ」と勧める
- ② 失敗した人に「気にしないで、誰でもあることだよ」と慰める
- ③ 「こうした方がうまくいくよ」とアドバイスをする
- ④ 恋人や家族に「心配だから」と行動を制限する
- ⑤ 落ち込んでいる人を「がんばって」と無理に励まそうとする
- 逆もまた真なり
- 空(くう)と道(タオ)
- 仏教:考えましょう(左脳・分析的)
- 道教:考えるのやめましょう(右脳・感覚的)
- 「悟り」とは
- 本来の言葉の意味
- 何でそうなってしまうのか
- 「仏(ほとけ:佛)」の意味
- これまた手前味噌ですがw
- 🌀きまずう OS
他にも例がたくさん(ここは飛ばしてもOK)
① 体調を気遣って「これ食べなよ」と勧める
意図:「元気出してほしい」「体にいいものだから」
相手の反応:「今は食べたくないのに…」「勝手に決めないで」
→ 食欲がない・好みでない・アレルギーなど、相手の状態を無視していると感じさせる場合。
② 失敗した人に「気にしないで、誰でもあることだよ」と慰める
意図:「気を楽にしてほしい」
相手の反応:「ちゃんと話を聞いてほしいのに」「軽く流されたようで不快」
→ 相手がまだ気持ちを整理できていないときに、早く立ち直るよう促されると「否定された」と感じることも。
③ 「こうした方がうまくいくよ」とアドバイスをする
意図:「成功してほしい」「経験から伝えたい」
相手の反応:「上から目線に感じる」「自分のやり方を尊重してほしい」
→ 本人が求めていないタイミングや、信頼関係が不十分な場面では逆効果になる。
④ 恋人や家族に「心配だから」と行動を制限する
意図:「安全でいてほしい」「苦労してほしくない」
相手の反応:「信頼されてない」「自由を奪われてる気がする」
→ 過保護・干渉と受け取られ、愛情が重くなることがある。
⑤ 落ち込んでいる人を「がんばって」と無理に励まそうとする
意図:「元気づけたい」「前向きになってほしい」
相手の反応:「今はそっとしておいてほしい」「気持ちを分かってくれない」
→ タイミングや温度差を間違えると、逆に孤独感が増すことがある。
これらはすべて、「相手のため」という気持ちから出ているのがポイントです。
誤解が生まれる原因は、
「相手の立場に立って考えることが足りなかった」
という事にあります。
👇この記事も参考に
逆もまた真なり
あなたの状況によっても相手の「思いやり」を「押しつけ」と感じる事があるはずです。
でも、気づかないときもあるし、分かっているけど腹が立ってしまう時もあると思います。
どうしたら良いのでしょうね…
歴史上の覚者がどう言っているか、分かりやすく説明してみます。
空(くう)と道(タオ)
そういう、様々な状況や立場・タイミングによって、言葉の意味や伝わり方が変わってしまう事を釈迦は
「縁起」
という言葉で説きました。「縁(関係性)によって起こる事」であると。そして、そのバランスが保たれた中間ポイントのことを
仏教では「空(くう)」
道教では「道(タオ)」
と説いています。言葉は違いますが、おおむね同じ意味です。
しかし、「向き合う方法」は違います。
複雑な要素が常に絡み合って
いますので、「空」や「道」というバランス状態を取り続ける事はとても難しいです。釈迦でも老子でも無理なんです。人間には到底無理なんですね。
それがまさしく「真理」というもので、それを「神」とする教えもあります。僕はそれを「構造」と呼んでいます。
この世界の「大前提」と言っても良いです。
それでもなお、より良き人生を送るために、
釈迦と老子は次のような教えを説きました。
それぞれが説く「向き合う方法」についてシンプルに説明します。
仏教:考えましょう(左脳・分析的)
釈迦は「慈悲や憐みの心を持ちましょう」と説きました。
まず、なるべく相手のことを先に考える。そうする事によって、無意味な争いをなるべく避けましょう。「考え」を活用する。それが「中道」です。
その方がより「空」に近付き、「苦労が少なく生きられますよ」という教えです。
道教:考えるのやめましょう(右脳・感覚的)
一方、道教では「無為自然」という態度が説かれています。これは「あきらめましょう」「なるようにしかなりません」という意味ではあるんですが、投げやりに聞こえるかもしれませんね。要するに「自然体でいましょう」「感じるままに生きましょう」という事です。究極のスルースキルですねw
そのほうがより「道」に近付き、スムーズに生きられるという教えです。
👇ご参考まで
「悟り」とは
「空」や「道」を求め、しかしそこに「ピタッ」と止(とど)まることはできません。「ここだ!」と思った瞬間にそうではなくなるという性質をもっています。
その、常に変わってしまう「無常さ(常では無い)」を知ることが「悟り」であって、何かこう…特別な存在になれという事ではなく。それを理解するシンプルな事が「悟り」なんですね。
頭の中が真っ白になって、幸せな気持ちになる事が「悟り」ではありません。宙に浮くことでも、人に触れずに病気を癒す事でもありません。特定の高揚感、光、覚醒、超常体験でもありません。
そんなに難しい事を覚者たちは説きません。
しかし、何やら歴史と共に意味が歪んでしまっているような気もします。
本来の言葉の意味
「悟る」の意味=はっきりと理解する。見抜く。
過去に「言葉」や「漢字」を作った(充てた)識者の人々は、そういう意味だと理解していたと思います。だからこそ、「悟り」が教えに対するふさわしい言葉として採用されました。
「悟る(動詞)」→「悟り(名詞)」
様々な事の本質が忘れ去られていくのが人間社会です。なぜなら、その方が「効率が良い」からです。
例えば数学の公式
a + b = b + a
…これは簡単すぎますね。じゃあ、
abc = (ab)c = a(bc)
この「乗法の結合法則」は計算の公式のひとつです。
なぜそうなるのかを理解して使っている方はどれくらいいるでしょうか。しかし、この公式は正しいと理解されているはずです。でも、理由は分からない。
そう、すべての本質は忘れられていく。
その方が都合がいい面があるからです。人間社会の成長の土台ともなっているのが、実は「忘却」だったりします。そしてその「忘却という隙間」を狙っているのが詐欺師だったりします。仏教ではこれを「無明」といいます。
それは、覚えておいてほしいです。
そして、釈迦や老子の教えさえも、「忘却」されて行きます。イエス・キリストの教えもそうです。本質が失われて行きます。少なくとも「ズレて」行くのは間違いないでしょう。
何でそうなってしまうのか
でもね、この文章を読んでいる時はあなたも
「分かっている」はずなんです。
しかし、その理解が吹き飛ぶ瞬間があります。それは、
「怒り」や「哀しみ」の瞬間です。
一言で言えば「感情」です。その感情が沸き上がる原因を、仏教では「煩悩」と説いてます。
この「煩悩」は完全な「悪」ではありません。「喜び」や「楽しさ」そして「愛」もこの「煩悩」から立ち上がります。
これは「人間らしさ」の象徴なんですね。次のように教えられませんでしたか?
煩悩を捨てなさい。
これは間違いとまでは言いませんが、ちょっと本質から「ズレて」います。捨てるのではなく、「手放しなさい」という方が近いかな。
しつこいようですが「煩悩」は「悪」ではありません。人類の「進化のエネルギー」となっているのがこの「煩悩」です。
もっと幸せになりたい!
もっと遠くへ旅行してみたい!
もっと高く飛んでみたい!
もっと速く走りたい!
もっと豊かになりたい!
しかしこれに、「比較の対象」が付くことで困ったことになります。
あいつより、もっと幸せになりたい!
あいつより、もっと遠くへ旅行してみたい!
あいつより、もっと高く飛んでみたい!
あいつより、もっと速く走りたい!
あの国より、もっと豊かになりたい!
これが「縁起」の一つですね。「関係性」のなせる業(技ではありませんw)です。そしてそれは、「思いやり」が「押しつけ」に変化してしまうような、すれ違いの原因です。
「仏(ほとけ:佛)」の意味
「仏」という「漢字」がそもそもどういう意味なのかを分解すると、
佛 = 人 + 否定(弗)= 人にあらず
「人にあらず」ってやばくね?w
いやいや、実はそうでもないんです。この「人にあらず」とは
人間の最大の特徴である「言葉」を捨てた人
「言葉」には必ず「解釈(意味づけ)」が付きまといます。そういう意味で、
人間の最大の特徴である「解釈」を捨てた人
👇解釈とはこういうこと
そういう意味なんですね。「解釈」を捨てた人の立ち居振る舞いは、
何を言われても微動だにしない!
いつも微笑んでいる!怒らない!!
感情がない?w
とか、「ただならぬ雰囲気」を漂わせているわけです。この状態が「人ではない」なんか「すごそうな存在」に見えたんですね。
普通ではないと。
なんか違うと。
オーラが見えたかも…それは無いかなw
まあ、そもそもの話、
「仏」はサンスクリット語のブッダ(Buddha)の訳。意味は「目覚めた人」なので、当て字をした結果こうなりました。
佛 = 人 + 否定(弗)= 人にあらず
これまた手前味噌ですがw
何をどういう切り口で話してもここに行きつくんですよねえ…
「きまメOS」です。名前は変かもしれませんがw
これは「煩悩」を「手放す」ためのシンプルな訓練法です。
👇👇👇
このOS自体は常に無料で見られるようにしています。それは、かつての宗教の失敗を繰り返さないためです。「金」が絡むと「本質が歪み」ます。この「金」はある意味で「忘却」の「エンジン」でもあります。(「進化」の「エンジン」でもありますけどね…)
無料で見られなくなってたら教えてください。
その時はおそらく僕は「煩悩」にハマっているでしょうからw
この画像に特に意味はない。きれいだったから…
最後までお読みいただき、ありがとうございました(*^^*)
🌀きまずう OS
私たちの思考や感情には、無意識の「構造」が潜んでいます。 きまメOSは、それらを可視化し、抽象度を上下させることで、新たな視点や選択肢を生み出す「思考の土台」です。 心理、哲学、社会、そして科学――分野を横断して使えるこのOSは、あなた自身の「気づき」の精度を高めてくれます。
👇詳しくは「きまずうOS 解説ページ」へ
※この記事で触れた概念や構造は、すべて「きまメOS」という“抽象度の自由な思考OS”によって支えられています。きまメOSは、感情の構造化から、哲学的洞察、科学的モデルの理解まで、さまざまなレイヤーで活用可能な柔軟な思考エンジンです。